1596年、第三の勢力、オランダ人がジャワに到達した。ポルトガル人も香辛料貿易を独占しようとしたが、交易拠点の支配で満足した彼らと異なり、オランダ人は栽培地に至るまで占拠して面的に支配地を拡大し、栽培地を監視し、香辛料を生み出す樹木が持ち出されないよう、さらに、栽培区域外で若芽を発見した場合は、有無を言わさず焼き払った。
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1605年にアンボイナ占領し、1619年、最大港市だったジャワに総督を置き、バタヴィアを建設する。1621年、バンダ島民を虐殺。1623年、進出して来た第四の勢力イギリスの商館を襲い、やはり虐殺した。イギリスは150年以上、東南アジア島嶼部の植民地化から排除された。
1641年にはポルトガルからマラッカを奪い、北に向かっては1623年にポンフー諸島、1624年から1661年にかけて台湾を占領し、東南アジア島嶼部はフィリピンを抑えたスペイン、東部に押しやられたポルトガルを除き、オランダ以外の勢力が拡大する可能性がなくなった。オランダが支配する地域はごく僅かな点に過ぎず、大部分の土地はオランダ人はおろか、元々の都市国家の支配も受けない無人の地ではあったが。
オランダの拡張は、この後非常にゆっくりとしたテンポで進んで行く。1699年にジャワにコーヒーを持ち込み、貿易で高い利潤を上げることに成功。1758年、オランダはようやくジャワ島の植民地化を完了。しかしながら、オランダ東インド会社は、本国政府の監督下にはなく、経営状態は未公開であり、経営陣の私物化が著しかった。このため、独占的に輸出できる商品作物があったにも関わらず、収支は大幅な赤字となっていた。ナポレオンにより、オランダに共和政府が誕生すると、まっさきに旧態依然としたオランダ領東インド会社がやり玉に上がる。1799年には会社が解散させられてしまった。
会社に代わり、植民地政府が成立すると、植民地自体で財政を黒字化することを求められた。このため、最終的に強制栽培制度に到る現地の首長を間接的に利用した支配を固めていく。
オランダは利益が上がる地域から、首長間の紛争や後継者争いに乗じて、じわじわと勢力範囲をのばして行った。オランダの戦力は地元の首長の戦力の合計より少ないことも多く、間接的な方法を使う必要があったからだ。
1848年、ようやくバリ島を征服。1849年、チモール島をポルトガルとの間で分割。1872年、スマトラ島の征服をほぼ完了し、イギリスと不干渉条約(スマトラ条約)を結ぶ。1873年から1904年、最後まで抵抗していたスマトラ島最北部のアチェ王国を攻略する。同年、オランダ領東インドが成立した。オランダは利益につながらない占領には興味がなく、他に競合するヨーロッパ諸国もなかったため、ボルネオ島の占領、開発に乗り出すことはなかった。
イギリス人の再登場
マライ半島植民地化の状況(1922年)1786年、イギリスはマレー半島の西岸、シャムの影響力が強かったペナン島の領有に成功する。マラッカ海峡の最北部にあたり、オランダからは脅威と見なされなかった。
フランスとの戦争に乗じて1811年から1816年にかけてジャワを占領したが、イギリス政府は、短期的な利益の見込めないジャワをオランダに返還することに同意。行政官のラッフルズはジャワ返還に反対したが、職を辞す結果につながった。ラッフルズは、マラッカ海峡にイギリスが食い込む方法を研究、現地視察を重ねる。1819年、ジョホール海峡の南に広がる森林地帯、シンガポールを開発すれば良港になりうることを見抜く。現地首長との交渉により、シンガポール領有に成功した。その後、首長単位、港市単位に粘り強い交渉を重ね、首長に高額の年金など一見有利な条件を見せて、保護国化を進めて行く。
スズ鉱山へ中国人、ゴム農園にインド人を大量に導入し、人種ごとに法律や税金を変えるなど、人種間の争いが進む方向に誘導し、イギリス支配に対する反発をそらすことに成功した。
ブルネイの窮状とブルック王国(イギリス)の成立
イギリスはオランダとの条約により、マレー半島と無価値と思われていたボルネオ島北部に関する権利を獲得している。しかしながら、イギリスととしてもボルネオ北部の開発に乗り出す積極的な理由はなかった。
ここで、当時はブルネイの領土だったサラワクに1839年に現れた探検家、ジェームズ・ブルックが頭角を表す。彼はシンガポールを「発見」したラッフルズに憧れ、みずから植民地を開きたいと考えていた。ブルネイ側は19世中盤におけるダヤク人(海ダヤク)の北へ、海岸線へと向かう動きに悩まされていた。ダヤク人はそれまで外界と接した経験がなかったためか、奇妙な戦闘集団を結成、ヒトの頭骨を集め始めた。ブルネイ首長はダヤク人との戦闘を恐れ、ブルックに戦いを任せる。
ブルックは沿岸地域に居住していたダヤク人(陸ダヤク)と手を結び、イギリス人の戦死者(頭骨を取られたもの)を1人に抑え、勝利する。ブルネイ王から蕃王(ラジャ)の称号を与えられたブルックは、サラワク王国を建てた。しかしながら、ブルックには領土拡大の意志があり、ブルネイは度重なる戦闘で、国土の大部分を失ってしまう。1867年にジェームズ・ブルックが亡くなると、二代目のチャールズ・ブルックが跡を継ぐ。
日本の統治
第二次世界大戦が始まり、この地を侵略・植民地化していた西欧勢力を日本軍が撃退した結果、 1942年より日本の戦時統治が始まる。なお、ブルネイ港は軍港としても機能し、連合艦隊の主力が停泊したこともあった。有名な所では、1944年のレイテ沖海戦における栗田艦隊はブルネイから出撃した。1945年8月15日の終戦まで、日本軍の勢力化に置かれたが、敗戦により順次撤退、この統治は終わった。
イギリス本国による統治
マレーシアの独立と窮状
ブルネイ・ダルサラーム国の独立
ブルネイ王の系図
ブルネイの国王
歴史的な記録
イブン・バットゥータ『大旅行記 6』、家島彦一訳注、平凡社、2006 ISBN 4582806910 - インドのデリーから東南アジアを経由して中国の泉州にいたるイスラムの大旅行家の手記
トメ・ピレス『東方諸国記』、生田滋、池上峯夫、加藤栄一--ほか訳、岩波書店、1973年
趙汝适『諸蕃志校釈』、楊博文校釈、中華書局出版、1996年 ISBN 710101279
趙汝适『諸蕃志』、藤善真澄編、関西大学出版部、1991年 ISBN 4873541301
周去非『嶺外代答』、周去非校釈、文殿閣書莊、1937年
ブルネイの通史を扱ったもの
Graham Saunder, A History of Brunei, Oxford University Press, 1994 ISBN 070071698X - 一般に入手できる唯一のブルネイ通史を扱った書籍だと考えられる。
ブルネイの歴史の一部を扱ったもの
Pehin Orang Kaya Amar Diraja Dato Seri Utama (Dr.) Haji Awang Muhammad Jamil Al-Sufri『ブルネイの古代史 古代とイスラム教の発展』、鷲見正訳、社団法人日本ブルネイ友好協会、1995年 - 6世紀から14世紀ごろまでのブルネイ史をまとめたブルネイ人による書籍、類書がない。
鷲見正『18世紀までのブルネイの歴史と東西文化の交流』、社団法人日本ブルネイ友好協会、1993年